希望 考えたこと

生きる意味、生きる価値とは|一精神障害者の考察

2026年6月25日

前を向いて歩く人

「生きる意味」、「生きる価値」とは何でしょうか?
私は弟を自死で亡くしました。本当に痛恨の極みでした。
私自身も弟が亡くなる前に2回、亡くなった後に1回、ODで自死をはかったことがあります。
弟が亡くなる前に自分が死んでいれば、弟は死なずに済んだかもしれないと思ったことも一度や二度ではありません。
これまで自分なりに苦悩し、向き合って考えたことを書きたいと思います。

「生きる意味」「生きる価値」を問うということ

人間は誰しも必ず死を迎えます。今のところ死から逃れるすべはありません。
そして自覚や認識の有無にかかわらず、いつ死を迎えるかは誰にもわかりません。

私の叔父は定年後、山奥に引っ越して第二の人生を楽しみながら暮らしていました。
しかし、叔父は樹木の剪定や伐採を老後の仕事としていたのですが、ある日、樹木の伐採の際倒れてきた木が頭を直撃して亡くなってしまいました。
いつものように朝仕事に出かけて行ってそのまま帰らぬ人となってしまったのです。
本人も奥様もまさかこんなことになるとは思っていなかったでしょう。

誰もがいつ事故や災害、急な病気などで命を落とすかはわからないのです。
生と死は常に隣り合わせなのです。

そして生きている間にしかしないことがあると思います。
それは「生きる意味」や「生きる価値」を問うことです。

私自身はあまりそうは思わないのですが、亡くなっても霊魂は肉体を離れて存在し続けると考えている人もいるでしょう。
確かに人の死の判定は本人ではなく、他人から行われます。
呼びかけても応答がない、体を揺さぶっても全く変化がない、脈がない、呼吸をしていないなど外から見て亡くなっていると判断されているだけです。
その時は既に魂は肉体を離れているのかもしれません。

しかし、霊魂になってまで「生きる意味」や「生きる価値」を考えるでしょうか?
そのような『問い』をすることができないというよりは、そのような『問い』はもうしないのではないでしょうか。
霊魂になればある意味、そのような『問い』から解放されているのではないでしょうか?

そう考えると「生きる意味」や「生きる価値」を問うことは生きている間にしかしないものだと思います。

そして、いつ死を迎えるかは誰にも予測がつかない、生と死は常に隣り合わせだということを考えると、実は「生きる意味」や「生きる価値」を『問う』ことは、避け続けたり先延ばしにするわけにはいかない問いではないでしょうか。

本当の「生きる意味」「生きる価値」とは

精神障害を抱えている人達の中には少なくない数の人達、健常者でも一定の割合で「自分には生きる意味なんてない」、「自分には生きる価値なんてない」と思っている人達はいると思います。

しかし、「生きる意味なんてない」、「生きる価値なんてない」と思った時点で既に「生きる意味」や「生きる価値」を『問う』ことをしているということになります。

つまり「生きる意味」や「生きる価値」にどのような答えを見出しても、あると思ってもないと思っても、それだけで既に「生きる意味や生きる価値」を『問う』ことをしていることになるように思います。

実際のところ、「生きる意味」「生きる価値」を問うことをしても、誰にでも当てはまる正解はないと思います。

また、前述のとおり、肉体が滅びて魂だけになってから「生きる意味」や「生きる価値」を『問う』ことはしないと思います。

そう考えると「生きる意味」や「生きる価値」を問うことは生きている間にしかしない、なおかつこれといった正解がない非常な重みを持った『問い』ではないでしょうか。
つまり「生きる意味」や「生きる価値」を問う』ことは生きていることと不可分です。

だからこそ、「生きる意味」や「生きる価値」を『問う』こと自体がまさに「生きる」ということになると思うのです。

さらに言えば「生きる意味」や「生きる価値」を問うこと自体が生きるうえで大きな「意味」と「価値」を持っているように思えるのです。
屁理屈のように思われるかもしれませんし、自己目的になっていると思われるかもしれません。
しかし、前述のように「生きる意味」や「生きる価値」を『問う』ことは生きている間にしかしないものです。

だとすると、どのような答えに行き着いても、『問うているだけで人は既に充分に生きる意味と価値を持ち合わせているのではないかと思うようになりました。

例え「自分にはもう生きる意味なんてない」「自分には生きる価値なんてない」と思ってしまったとしても、その時点で既に生きるうえで最大と言っても過言ではない重い『問い』をしているように思えてなりません。
そのような『問い』をすること自体が生きるうえで大きな意味や価値があると思います。

そして、生きている限り、この『問い』は何度でも問い直していいと思います。
ある時点で「もう自分には生きる意味なんてない」「自分には生きる価値なんてない」と思ってしまったとしても、それを結論として終わらせるのではなく、そのあと生きている限り何度でも『問い』直して全く問題はないと思うのです。

「生きる意味」や「生きる価値」を『問う』ということは人生の中で何度でも問い直していいことですし、その答えが変わっても全然かまわないように思えます。
変わったとしてもその意味や価値が低くなるというわけではありませんし、どんな小さな些細なことでも肯定的な意味や価値を見出したら、その時は「生きる意味」や「生きる価値」ではなく、『生きる力』になるのではないでしょうか。
「生きる意味」や「生きる価値」を『問う』ということは人間のライフワークなのかもしれません。

これまで書いてきた文章に全く論理的間違いがないとは言えません。
この記事を書くこと自体も私自身が「生きる意味」「生きる価値」を『問う』ている過程であるように思います。

拙い文章ですが、最後までお読みいただいてありがとうございました。

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  • この記事を書いた人

しょうと

高齢の精神障害者です。発達障害、自己愛性人格障害、統合失調感情障害と診断されており、障害年金1級を受給しています。障害者手帳も1級です。心の病と共に生きるためのノートとしてこのブログを書いていきたいと思います。

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